中井 履軒 なかい りけん
   

清琴素月獨鶴孤舟
清琴(=清らかな琴の音)素月(=白く明るい月)
獨鶴(=一羽の鶴)孤舟(=ぽつんと浮かんでいる一隻の船)
27.2p×133p

享保17年5月26日(1732年6月18日)生〜文化14年2月15日(1817年4月1日)歿
 中井甃庵の次男として生まれ、名は積徳、字 は処叔、通称は徳二、号は履軒・幽人。
 五井蘭洲に朱子学を学び、兄の中井竹山とともに大坂の学問所懐徳堂の全盛期を支え、懐徳堂学派で最大の学問的業績を残したと言われる。
 竹山逝去の際、履軒は名目上の学主に就くが、実際には、懐徳堂から一定の距離を置き、私塾「水哉館」で研究教育に専念した。古典や経学の注釈の第一人者であっただけでなく、天文学や解剖学などの西洋科学にも通じていた。西洋天文学を本格的に学んだ人物である麻田剛立を寄寓させ、彼との交流からも多くを学んだ。天文学説としては、ティコ・ブラーエの宇宙モデルを支持した。その研究は、脱神話、脱権威の批判的実証的精神に貫かれており、富永仲基・山片蟠桃らとともに、懐徳堂が生んだ近代的英知の先駆的存在であると評価されている。彼の息子に後に「水哉館」を継いだ中井柚園がいる。
 中国の儒教経典に対する研究を経学と呼ぶが、履軒の経学は、はじめ既存のテキストの欄外に自説を書き加えることから始まり(『七経雕題』)、それらはやがて整理され(『七経雕題略)』)、最終的には『七経逢原』全三十三巻として集大成される。また『中庸逢原』においては『中庸』にとりわけ高い評価を与えた。
 一方で上述の通り、麻田剛立との関わりや、宣教師によってもたらされた西洋天文学の概略を学んだ明末期〜清初期の人物である游芸の『天教或問』を通じて、ヨーロッパの学問にも目を開かれた。同書を解説した『天教或問雕題』を著わし、天体図も作成した。さらには反古紙を使って中国の昔の文人の衣装「深衣」を復元作製し、『深衣図解』を著すなどした。
彼の書物の題名に頻出する「雕題」とは、先行する優れた書物の欄外に注釈を記すことを意味しており、のちにそれらの注釈を集めて独自の思想に大成したが、それが彼の学問の基本的な方法論であった。
 また、自らを架空の理想国家「華胥国」の王に擬し、国家の統治のあり方を論じた『華胥国物語』などの著作もある。さらに天文学以外の自然科学方面では、博物図譜『左九羅帖』や、解剖図『越俎弄筆』、顕微鏡観察記録『顕微鏡記』も残している。懐徳堂文人の特色とされる合理的・近代的な学風は、主にこの履軒によって確立されたといわれる。
 「履軒幽人書」の下に、白文の「積徳之印」、白文の「水哉館」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E5%B1%A5%E8%BB%92
http://kaitokudo.jp/03intro/p2_2_5.html
http://www.kaitokudo.let.osaka-u.ac.jp/antique/1298/
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitoku-c/pdf/leaf-riken.pdf#search=%27%E4%B8%AD%E4%BA%95+%E5%B1%A5%E8%BB%92%27


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